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『リング』『らせん』『エコエコアザラク』  [1999.7-2000.7]

 

第一節 映画『リング』 意味も出口もない恐怖

 「リングみる馬鹿、二度みぬ馬鹿」−、あんな怖い映画をみるのはバカだが、一度みたら二度みないのはバカだと思う。この映画はくり返してみるほど、心理効果の計算がじつにみごとになされていることに感心させられる。

 

 あの異様な恐怖感は、もともと純愛映画志向の中田秀夫監督と、恐怖映画ひとすじの脚本家・高橋洋のコンビが、『女優霊』(1995)をはじめとして、何年もかけて積み上げてきた技法だということである。

 

 高橋・中田コンビがつくり出す幽霊の恐怖イメージは、日本の住人としては誰もが潜在意識に集積している恐怖感・嫌悪感をつつき出すだけでなく、現代的な感覚の日常性にあまりに自然に溶け込むように考え抜かれている。つまり、伝統的な日本の土俗的な恐怖感と、今日的なテンポのスピード感、リズム感が上手に配合され、誰もがわけのわからぬ気持ちの悪さを共通に感じるような仕掛けがじつにうまくつくり出されているのである。そこには、ホラー映画の技法におけるなんらかの技術革新に秘訣があるのにちがいない。

 

 もっとも、脚本家の高橋洋のほうはまだ映像の出来映えに不満を述べている。

 

 「映画館では客席から悲鳴が上がったという。それは恐怖映画を作り続ける者のひとりとして当然狙っていたことではある。だがその悲鳴は人生に深刻な変更を迫るモノだったろうか。映画が終わればすっきりさばさば家路につける程度のモノだったのではないか。」(原作・鈴木光司/脚本・高橋洋『映画版脚本集 リング リング2』角川ホラー文庫、1999p.295

 

 なんで入場料を払ってまで人生に深刻な変更を迫られなくてはならないのか? まったく゛恐怖魂゛に取り憑かれたひとの心情というものは理解を絶している−。

 

 「『リング』のヒットによって恐怖を保証するのはマテリアルな工夫の積み重ね、方法論だという認識はある程度普及するかもしれない。・・・・だが方法はしょせん方法に過ぎない。普及してしまえば表現としては死ぬ。重要なのは新たな方法を欲望する、その表現の根幹にあるモノ、呪われ取り憑かれた゛恐怖魂゛なのだ。」(同前、p.296

 

 このような高橋洋と中田秀夫のコンビが到達した、映画『リング』から這い出してくる山村貞子像は、伊野尾理枝というパフォーマンス系の劇団女優が演じる不気味な昆虫的な動きを、さらにカメラで逆回転にしたものだという。その、吐き気を催すような気味の悪さやおぞましさには、しかし、どこかユーモラスで、どこかは格好よいセクシュアリティさえも含まれているに違いない。朝日新聞でも報道されていたことだが、台湾で『リング』は『七夜怪談』として爆発的に大ヒットしたそうである。バラエティー番組でも貞子(チェンツー)のものまねが大流行したという。

 

 だが、しかし怨霊・山村貞子の魅力は同時に、やはりなにがしかの、時代の空気感といったものをつかむことにおいて、日本の若年層にジャスト・ミートする感覚があったのにちがいない。それは、端的に言って、鈴木その子と天童よしみのキャラクター・グッズが山村貞子キーホルダーとともに、女子高生の間に人気を博するという時代性、また、野村沙知代の毀誉褒貶をめぐる異常なまでの過熱ぶり、さらには「顔黒・ヤマンバ系ギャル」の特異な意匠にも、共通の磁場があるように思える。

 

 そのことは、たんなる異形なものへの関心というだけではない。異形性の背後にある、ある哀しさのようなものを、女子高生たちは支持しているのではないだろうか。鈴木その子女史も野村沙知代女史も、若き日には、かなりか、それなりかの美人であった。だが、何が、どのような人生経験が、鈴木その子女史をしてあのように美白への、あるいは野村沙知代女史をしてあのように金銭や権勢への、妄執へとかくもはしらせるのか。

 

 そこに、今様に圧縮されたデータとして、女子高生たちは、これから自分たちに訪れるであろう累積されてゆく人生の時間というものの異形さを、瞬時に直感的に読み込むのではないだろうか。台湾での貞子(チェンツー)ブームが、バラエティ番組でのパロディの方向であるらしいのに対して、やはり日本でのブームは多少、方向性がちがっているのだと思う。それはまことに、世紀末の平成不況下の日本の黄昏の風景にハマリすぎのものであるというほかないように思われるのである。

 

 映画の製作技術の粋を尽くしてつくられた純然たるエンターテイメントが大成功を収めた場合、当然ながら、そこにはものの見事に、その時代の観客がみたいと潜在意識の中に抱えていたものが映し出されるわけであろう。その意味で、映画『リング』の恐怖イメージを増幅させる技法が、他を圧倒しえたのは、山村貞子の怨念に一切もっともらしい説明を加えなかったことである。そこをカットしてしまうテンポのよさが、かえって瞬時に通り過ぎた恐怖映像の残像のように、あるいは底のみえない井戸の暗闇のように、言い知れぬ恐怖感を膨張させるものとなる。観るものが潜在意識の中に抱えているものが、いわば勝手に引きずり出されてくる効果をもつこととなったのだろう。

 真田広之の演ずる高山竜司の台詞の中に、呪いのビデオのような噂は、人々がそうあってほしいと望むから流行るんじゃないのか、といったようなことがあった。

 

 「みんなが不安に思ったことが噂になる。・・・・あるいは、そうなって欲しいって期待かな?」

 

 これが唯一、中田・高橋コンビによる映画『リング』の社会的・思想的なニュアンスを帯びたメッセージであった。そして、結果的に大ヒットした映画『リング』における異形の山村貞子像が、日本社会を徘徊するようになったことへの自己言及的な自己批評ともなった。だから、日本や台湾を徘徊しはじめた怨霊・山村貞子は、現在の日本社会の病的な深層意識の中から這い出してきたのだということは、当然のことといわなければならない。

 

 では、あのような長い黒髪で覆われて顔をみせない凄まじい怨念として表徴された、現在の日本社会の病的な深層意識の中から這い出してきたものとは、一体なんなのだろうか。原作では山村貞子は、昭和41年(1966年)に死んだことになっている(世代的にはほぼ団塊の世代にあたるらしい)。貞子の怨念は、今の若い女子高生たちにとっては、随分と遠い過去からの怨念なのであろう。彼女/彼/私たちにとっては、終末観に閉ざされた未来という時間が空漠とした不安感としてあるだけではない。接続の意識をもちえない、かつて戦争があり原爆投下があり、そのあとにつづく戦後とよばれてきた、長く重苦しい時間の流れがある過去というものも、井戸の底の闇を覗き込むような恐怖感を覚えるときがあるということである。

 

 わたしには、映画製作サイドと観客サイドのかけひきが無意識のうちにつくり出した怨霊・山村貞子像は、いまの日本社会の若い世代が抱いている、過去と未来の時間性そのものの疎外された病像の表象となっているように思われてならない。そして、その時間性の中には、自己・家族・学校・職場・マスコミ・新自由主義・戦後民主主義・・・・その他の人間的・社会的な諸関係の総体がふくまれ渦巻いている。

 あの吐き気を催すような気味の悪さ、ビデオをみてしまうというだけのことからくるやりきれないような唐突な不幸、けして解除されることのない不条理な呪い、そのすべてが漠然とそうなのだと感じられるのである。

 

第二節 映画『らせん』 意味と予言にみちた作品

 鈴木光司による『リング』(1991)−『らせん』(1995)−『ループ』(1998)の三部作や、映画『らせん』の飯田譲治による『Night Head』(1994)−『らせん』(1998)における世界観は、中田秀夫・高橋洋コンビによる映画『リング』シリーズのそれとはまったく異質である。同じくエンターテイメントに徹しているとはいえ、中田・高橋コンビの世界は、意図のうえではほぼ完全に思想的・社会的なメッセージ性をもった世界観となることを遮断するスタンスをとっている。それに対して、鈴木光司や飯田譲治のほうは、コスモロジー(宇宙論)を語るSFやニューエイジ系を意識したテイストのエンターテイメントとなっている。したがって、世界観も方法論も、そして当然にターゲットとする客層も本来的に異なっている。どちらかというと怪談ホラー好きの女子よりも男子のほうに面白く感じられるのであろう。

 

 いうまでもないことだが、鈴木光司の原作『リング』『らせん』の面白みは、オカルト、カルト・ホラー的な要素と、ミステリー、SF的な要素とが絶妙にミックスされて、全体のテンポとしてはアクションに近いものになっているところにある。そして、その全体の構成が、読者とのかけひきとなっている知的ゲーム感覚のおもしろさにある。鈴木光司の作品の主要な魅力は、奇抜なアイデアの論理的な組合せや、家族愛と「人類愛」の究極の選択(つまり家族的な対幻想と社会的な共同幻想の錯合する場面で個人を苦衷に陥れる「倫理」)を主題としている点のほうにある。三部作の最後の『ループ』となると、完全にホラーを否定してしまっている。"loop"には、ちゃんと゛宙返り somersault ゛という意味も含まれているのである。

 

 いずれにせよ、「知的アクション感覚」というテイストが、原作『リング』『らせん』そして『ループ』の類書に例をみないところなのであろう。このような観点からは、原作の三部作の場合、『リング』と『ループ』よりも中間的な帯域に位置する『らせん』がいちばん面白みがあると思う。

 

 原作『らせん』では、いわばエイズ・ウィルスやエボラ・ウィルスが突然変異を起こして、たとえば容易に空気感染するようになったら、というような人々が漠然と抱いている不安感を、たくみなメタファーによって掻き立てる。すなわち、類い希なる能力と美貌にも関わらず無惨な死を遂げた山村貞子と、撲滅されてしまった天然痘ウィルスとの結託という、荒唐無稽なるメタファーによってである。そこには、塩基配列というDNA分子による遺伝子だけが自己複製を行うものとはかぎらず、それ以外にも自己複製だけを自己目的としたプログラムがこの世界には存在してもおかしくはないという゛キャンベルの規則゛の考え方も生かされている。幸福の手紙がその一つであるが、それをビデオテープにおきかえて、しかもたんなるデマではなく本物の自己複製子に転化するメカニズムとして巧妙に創作されている。

 

 さらにそこに、ビデオテープから本、映画などへとマス・メディアによって爆発的に増殖してゆく感染という比喩が累加されてゆく。それによって、現在のマス・メディアのもっている文明破壊的なウイルス性も暗示されているといえよう。このような暗示は、1990年代前半までの時代意識を表象しているといえよう。

 

 だが、さらに飯田譲治の映画『らせん』は、時代意識を90年代中葉の感覚にまで引き込んで、原作以上といってよいほどに印象的なラストシーンをつくり出すことに成功している。安息が訪れるのは−ずっと先なんだよ、という予知的な諦念が、90年代前半までと中葉との時代感覚の鋭角的な変化を際立たせる効果を与えていた。

 

 そこで真田広之や中谷美紀が表情の演技によって微妙に表現しているものは、たんに自分たちだけが助かればよいというエゴイスティックな姿だけではないと思う。高山竜司や再生・山村貞子(=中谷美紀)の自己中心的な行動にみえるものも、じつは彼らのような能力者にもどうすることもできない巨大な渦に巻き込まれながら、必死にあがいた結果にすぎない。

 

 「だれも、じぶんがどうなるかなんて、わからない−」

 

 その結果、自分たちもまた、予想もしていなかった成り行きが始まってしまったという自嘲を含んだ表情−。それは、この成り行きもまた、今後の巨大な渦巻きの中でどうなっていくのかは、彼ら自身にも予見できないことなんだよ、そんなこと言ってもわかってもらえないだろうけれども、というニヒリスティックな諦念ではなかろうか。

 

 飯田譲治監督において映画『らせん』の前段をなすといえる映画『Night Head』(1994)は、地下鉄サリン事件の前年に公開されていて、かなりその意味では予言的な面をもっていたといえるものである。はじめに「リングみる馬鹿、二度みぬ馬鹿」といったが、しかし、二度以上みても映画『リング』はもうそれほど面白くないのかもしれない。純粋なエンターテイメントとして、ファースト・センセーションと、二度目には技巧的なところにつくづく感心する、そんな感じでそれ以上の深いメッセージは敢えて無いわけだから(ただし、ビジュアルやサウンドの方面ではなかなか飽きがこないかもしれない)。その点で、映画『らせん』は、もう何回か繰りかえして観て(あるいは繰りかえし観てはじめて)面白いというタイプの映画であることは間違いない。

 

第三節 映画『ねらわれた学園』『エコエコアザラク』 時空間の意味的な捻れ

 映画『らせん』では、山村貞子像は原作に忠実に、非業の死を遂げた美人女優の卵として描かれている。井の底に滞留し続けた山村貞子の無念さ、それをわずかなシーンだけで説得力のあるものとするには、キャスティングがものをいうであろう。それが映画『らせん』において成功しえたのは、若き女優・佐伯日菜子のゆえであった。彼女は、若者向けエンターテイメントの分野で1990年代末葉において独特の活躍をしてきた。

 

 たとえば、映画『ねらわれた学園』(監督・清水厚、脚本・佐藤嗣麻子、1997)では、救済を使命としながら、逆説的に自らの存在が時空間の歪みをもたらしてしまった未来からの救世主、という逆説にみちた恐怖の美少女を見事なまでに怖ろしく哀しく演じていた。この映画は、1976年の眉村卓の少年SF小説を原作とするもので、1981年には大林宣彦監督・薬師丸ひろ子主演で映画化されている。原作は高度成長期の健全さと一抹の未来への不安とが表現されたものであったが、大林監督作品は、その時点においてはやや突出したかたちで、やがてあの脳天気なまでに幸福にもオメデタクもなっていった1980年代の到来を予言的に表現した名作であった。わたしはかつて池袋・文芸座で松田聖子の『野菊の墓』と併映となったのをみたとき、この大林監督作品にこそ、当時まさに躍進しつつあったビートたけしの存在とともに名状しがたい新しさを感じたものである。

 

 その記憶のために1997年のリメイク版『ねらわれた学園』にも、他愛もない明るさを期待してみたのだが、いまや若者の時代意識や心象風景の鋭角的な変遷に思いをいたせと告げられるかのような重く暗いトーンがこの映画を支配していた。なにより象徴的なことは、佐伯日菜子が扮する゛未来からの救世主゛が、「199711月、人類は新たな精神面での進化をはじめます。・・・・」と語りはじめるところである。199711<恐慌>による暗転が、この映画ではものの見事にカバラ予言されていたということになるではないか。

 

 また、テレビ版『エコエコアザラク』(1997)でも、実の妹アンリを自らの手で刺し貫かなければならなかった黒魔術師・黒井ミサを演じている。この黒井ミサ役はほんとうに百聞は一見に如かずとしかいいようがない。(大江健三郎『宙返り』講談社、1999、の主人公の一人「踊り子[ダンサー]」のイメージはこの佐伯−ミサを彷彿とさせる。)

 

 『エコエコアザラク』とは1970年代の後半に少年誌に連載されていた、黒魔術師・黒井ミサを主人公とした怪奇マンガである。これが、どういうわけか1990年代にもリバイバルされ、さらに、鬼才・佐藤嗣麻子によって監督・脚本で映画化されたのである。この映画『エコエコアザラク』(1995)は、極度に切り詰められたトーンの脚本・演出と独自の映像美をもった作品で、黒井ミサ役の吉野公佳のほか菅野美穂も出演して高く評価された。そのため、佐藤監督と吉野公佳のコンビで映画『エコエコアザラクU』(1996)も上映された。さらにそれを受けて映画からテレビ化ということで、黒井ミサ役に佐伯日菜子を起用して放映が開始された。その直前の『ねられわれた学園』での演技が買われたものであったという。

 

 もともと、古賀新一による原作漫画『エコエコアザラク』は完膚無きまでにB級テイストの世界に徹している。テレビ版は一話完結形式なので映画版よりも原作に近いという言い方もされていたが、古賀新一の描く残酷、奇怪な黒魔術のイメージとはかなりテイストが違っている。私の目にはテレビ版を彷彿とさせる話は、一本も原作にはないようにみえた。たしかによく考えると、似たような話もあるといえばある。だけれども、佐伯日菜子が演ずると黒井ミサのつくり出す神秘世界もまったく異質のものに昇華してしまうのである。むろん、古賀新一の描く世界のほうが本物の「黒」魔術の世界である。また、佐藤嗣麻子監督の『エコエコアザラクT・U』の雰囲気も「黒」魔術の雰囲気に忠実である。だが、テレビ版のほうは「魔術」のほうに比重があって、いわば限りなく透明に近い黒「魔術」となって(しまって)いる。

 

 西洋の神秘主義の伝統でいうと黒魔術の世界というのは、どちらかという下町や村はずれの場末にいるような下級悪魔や魔女たちの世界である。それだけに日常生活の悲惨な現実(弱者によるより弱い者へのいじめ・差別など)にも直結しているようなものなのである。けして耽美的などではない陰惨さがつきまとっている。しかし、佐伯-ミサの世界となると、脚本や設定がちがうというよりも、佐伯-ミサそのもののもつ雰囲気において、いかなる日常世界からも超越するものとなってしまっている。そして、その<救世主系>の存在感によって、むしろ黙示録的というかニューエイジ系のコスモロジーを感じさせるような本流の神秘主義の雰囲気が醸し出されてくる。

 

 しかしながら、彼女は役柄によってまったく別人のようになりうるためにイメージが累積されにくかったためでもあろう。不思議なことに、女優・佐伯日菜子は依然として知名度がさほど高くないようである。(金子修介監督・大島弓子原作『毎日が夏休み』[1994]で清純派登校拒否児という役所で主演デビューし、第二作の伊丹十三監督・大江健三郎原作『静かな生活』[1995]ではノーベル賞作家の娘役で主演を演じているが、それぞれが別人のようにまったくイメージが異なっている。)

 

 またそれは、1990年代中葉の時間意識と、コギャルたちに『リング』貞子の無意味であるが故の無底の恐怖がブレークしたような90年代末葉との重層的な時間差の錯綜−時空間の歪み−のゆえもあろう。90年代の末葉に佐伯日菜子が演じてきた役柄たちは、はしなくも際限もなく繰りかえされてきた、「地獄への道は善意に敷き詰められている」ことからする惨劇のメタファーそのものとなっている。魂が美しいこと、志が高いこと、知能が優秀なことが自己をも他者をも不幸へと導いてしまうことへの諦念といったことが、90年代中葉に顕著となった若者向けのエンターテイメントを支配した基調低音ではなかったか。

 

 この時空間の歪みにおいて、ひとは、1997-8年のカルト・ホラーと1995年の新宗教カルト・テロルと1969年の新左翼セクト・テロルとの間に、循環する時空間の意味的な捻れを束の間、感じたりはしないのだろうか・・・・。

 

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